いくどかの試行錯誤を続けながらも日本の木製家具は立派に育っていった。国会議事堂をはじめとして各省庁の官邸、或いは財閥の私邸、公邸などの家具は木肌を見せた(欅材・楢柾)重厚なものが多かった。
曲木イスは、このような雰囲気の市場に突如現れたのだから大衆は唖然とした。一本の木棒をスチームで曲げて造られた軽妙な形態は多くの人の興味を引いた。 秋田県人、故「長崎源之助」は当時、農商務省に勤めていたが、府立工芸に推薦入学を受け、産学一体となってこの機械の研究に没頭した。同窓会で教師より年上の卒業生がいると思えば、それが長崎さんであった。
秋田県は、欅材の産地であり、木質が荒く、一般家具材には不向きとされていたが、どれよりも強靱であり、曲木にはピタリの用材であった。それにしても、大正の初期に既に、量産態勢に入れたほど開発出来たのは、一に長崎源之助氏の功労といわざるをえない。
ところで、曲木家具と同じく、外国で生まれ、日本で育ち、益々発展していったものに連結椅子がある。時期も同じく、大正年間初期の登場である。
日比谷公園を借景として帝国ホテルは明治末期に大倉財閥が米国の建築技士ライト氏を招いて設計依頼したものだが、本館の裏側に500人ほど収容できる演芸場を増設した。そこに設置したのが、連結イスの始まりである。脚部が金属であるので、家具の部類に入れるべきか躊躇したが、座も背も立派に家具の手法で工作されており、家具工場で産出することを考えて、敢えて創生期の家具の分類に取扱ってよいのではないかと思う。
連結イスの座に笑い話がある。
座の裏に取り付けてある帽子掛けのことであるが来客は、何のためのものであるか分からない。手荷物を入れたりカバンを入れたり、少くとも頭にのせる帽子を入れるものとは誰も考えられなかった。手荷物を座の裏に入れ、帽子を膝の上にのせた風景は大正の終り頃まで続いた。
帝国ホテルの次は、新橋演舞場、続いて帝国劇場(改築前)と、著名な公会堂、劇場には、ニューデザインの連結イスが施設されていった。またキワ物という難を除けば、藤イスもまた古き時代に家具として取り入れられつつあったのである。
明治37年、8年、日露戦争以後の20年間は、日本の国威は、昴揚し、家具文化も一層充実した。